日記
フィンランドのコミュニケーション教育
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻のニュースに触発され、現在、私の住む京都でも北海道に縁のある者同士で、ロシアに隣接する北海道への想いを語る機会が増えてまいりました。そしてロシアに隣接するフィンランドでの勤務経験のある私には、フィンランドの人たちが今どのような想いでこの状況を分析し、これからどうしていこうと考えているのか、想像することも多くなりました。ロシア軍の自国防衛を理由としたウクライナへの侵攻は、1939年11月に当時のソ連軍がレニングラード防衛のためには国境線の変更が必要と、突如フィンランドに侵攻を開始した冬戦争を思い出させるような出来事です。
米ソ冷戦時代のフィンランド大統領の最も大切な仕事は、独立を維持しながら隣国ソ連との関係を良好に保つことでした。独立を維持できずにソ連に併合されたエストニアは、併合前にはフィンランド以上に豊かな国だったのに、ソ連からの独立を回復した50年後にはフィンランドより1桁低い国民所得の国となってしまいました。独立を維持することがどれだけ大切かを示す例です。フィンランドとソ連の間で長年にわたって行われたカウンター貿易は、ソ連の天然資源とフィンランド製品の物々交換であり、決裁機能を担ったフィンランド中央銀行による後年の分析レポートによれば、フィンランド製品は、ドイツ向け等に比べて、ソ連向けは平均9%高く売っていた、ことが書かれていました。価格は需要と供給で決まりますから、おいしい商売をしていましたね。これも独立あってこそ。
独立の維持にあたりフィンランドは「ソ連指導部がフィンランドの動きに疑念を持ち始めた」と察知すると、フィンランド大統領自らモスクワに出向きソ連指導部とサウナに入り、文字通りの隠し事のない会話を通じ、ソ連指導部の疑念を払拭してきました。厄介な隣人だからこそコミュニケーションが大切と考えていたのだと思います。ソ連がロシアに変わってからも、フィンランド国会の未来委員会が発行した「ロシアの将来」に関するレポートは、自国語のみならずロシア語版も用意されていたことに、隣国ロシアの人にも読んでもらおう、という意思を感じ感心したものです。
フィンランドの人たちは「血の通った人間らしいコミュニケーションの力」が、○か×かで片付けられない日常生活の数多くの問題解決に有用なだけでなく、ビジネスやさらには外交の世界でも極めて重要であると信じているように思えます。そしてその力を高めるための教育が実践されています。フィンランドメソッドとして日本に紹介された小学校の授業は、コミュニケーション力を重視しています。そして未就学児をも対象に、フードトークを重視したサペレメソッドによる五感を使った食育活動が実践されています。(以下のリンクをご覧ください)
https://fivesenses-children.jp/free/finland
戦争を他人ごとに考えてなりません。コミュニケーションの不足が、時に恐ろしく痛ましい事件につながることを、ビルの放火事件から身近ないじめ問題まで、様々な場面で私たちは体験しています。
ITやAI、スマホなど機械を通じたコミュニケーションは、時に誤解を引き起こし、時に人を自殺に追い込んだりするような暴力的な力を持つことがあります。これらの視聴覚情報は、客観的な情報であるが故、各個人の想いや気持ちを押しつぶしてしまう側面があります。一方で触覚や特に嗅覚や味覚の情報は、感じる主体、個人の主観が前面にでてくる情報です。口にしない味はわかるはずはなく、口にするしないは個人の判断です。そして、その味の評価も各人各様であってよいのです。フィンランドにおける食を使った「血の通った人間らしいコミュニケーション」のトレーニングには深い意味がある、と感じているのは私の「フィンランドびいき」のせいでしょうか。
「あの素晴らしい愛をもう一度」~食が育むアタッチメント~
ある日、ふとしたきっかけで、私(代表)の青春時代の名曲「あの素晴らしい愛をもう一度」を思い出しました。
パソコンで検索し、懐かしい音楽をすぐに聴くことができました。
命かけてと 誓った日から
素敵な おもいで 残してきたのに
あの時 同じ花をみて 美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴らしい愛をもう一度
あの素晴らしい愛をもう一度
・・・・
何度聞いても素敵な曲です。作詞は北山修さんです。
北山修さんは精神分析医としても有名な方で京都府立医大を卒業され京都に縁のある方です。私は直接お会いしてお話を聞いたわけではありませんが、建帛社の「食と心」という本の中で、食事療法で有名な奈良県立医科大学の石井均先生が、北山修さんの発言について以下のように紹介されていて印象に残っているので、ここに記します。
「多くの人間が、食べ物を得ることと愛情を得ることを等価と考えていると思うのです。それは、原点においてそうだからです。母親の愛情は食べ物と一緒にやってくる、ミルクと一緒にやってくるのです。
そこで生まれるものがattachment(アタッチメント)です。「愛着」と訳される場合もありますし、「絆」とか「つながり」と呼ばれる類(たぐい)のものです。これが、人間の基本的信頼感=basic trust=ベーシックトラストの基となります。・・・中略・・・。
ところが、ここで学ばなければならないのは、本当に大変なことだと思うのですが、「愛情は食べ物から来るのでは無いんだよ」と。愛情は、接触や温かさであり、安心感であり、やさしさであると言うことを再学習せねばならない。」(石井均:病を引き受けられない人々のケア「聴く力」「続ける力」「待つ力」、医学書院2015)
生れたばかりの子どもにとって、食(ミルク)は愛情と共にやってくる。「食は愛情に似ている」と言われる原点です。だからこそ小さな子どもにとって、食はアタッチメントの形成に重要な役割を果たします。
私達は、保育園や幼稚園に食を教材として持ち込み、園児が先生方と一緒に五感を使って食を味わう体験学習を提供しています。その結果、先生方へのアンケート調査によれば、約8割の先生方が子どもの意外な感性に気が付いて、子どもをよく観察し、子どもへの声かけなどをより多く行うようになったと回答しました。これは北山修さんの歌詞「同じ花を見て心を通わせた」の例のように、同じ食べものを味わって、子どもたちの感性に気が付くことで「子どもと心が通い合う」役割を少なからず果たしたからではないでしょうか。
今日、保育現場においては保育活動の基本として「アタッチメント」という言葉がよくつかわれています。私たちの活動は、この「アタッチメント」の形成にも一役買うことができそうです。それは、サペレメソッドという五感体験・共感型の食育活動が、五感を使って味わうことを通じて、味わった人同士の心と心を通わせる作用があるからです。
離乳期を過ぎると、子どもは「上手に食べさせてもらう」ことから、「自分で食べる」ように成長します。その時期にあって、子どもが安心して主体的な活動に取り組めるためには、養育者との基本的信頼感が必要です。
食を通じた子どもとのアタッチメントについては、今までは当たり前に家庭や保育現場で実践されてきたものです。しかし家庭での孤食、コロナ禍の下で先生と子どもが一緒に食事する機会も制約されている話も側聞する中、食による絆は希薄になっている気がします。食事は「栄養」だけとれたら良いのではなく、アタッチメント形成という観点を忘れないようにと感じています。
あの素晴らしい食をもう一度!
昆布を食べるとどんな音?
昨日12月13日は、京都では正月準備を始める日「おことはじめ」でした。
今年も残すところあと少し。
コロナ禍ではありましたが、多くの保育園や幼稚園で関係者の皆様の協力を得て、無事に味の教室を行うことができたことにまず感謝です。今年も子ども達との楽しい出来事がたくさんありました。そのうちのいくつかを紹介します。
味の教室では味わう際に耳を手でふさいで自分の咀嚼音を聞く取り組みを行っています。
思った以上に大きな音が聞こえるこの取り組みは、子どもたちには面白いようで、味の教室の後も給食時などに、子ども達が「このキュウリ、ポリポリいうで」、「ホンマや」といったやりとりを自発的に行う姿が報告されています。
噛む事が楽しくなって、いろんなものに挑戦してもらえたら、と願っています。
今年の味の教室では、昆布を題材とする回を設けました。
昆布をテーマとする紙芝居の後、網走漁業協同組合さんから提供いただいた「長い一本まんまの足付きの乾燥昆布」が登場すると子ども達は興味津々。折りたたんだ昆布をワニの口のように見たてて遊んだり、海の中でゆらゆらする昆布の姿を想像したり、穴があいた場所を見つけては誰が食べたのかな?と考えたりしました。
昆布についた白い粉(塩分やうまみ成分)を見つけた子ども達は、何だか食べたくなってきたようです。
そこで、湯がいて柔らかくした切り昆布を一片ずつ子ども達に配布し、試食してもらいました。
お口に入れて噛んだ際に咀嚼音を聞くように促すと、子ども達は両手で耳をふさいで真剣に音を聞きます。
先生が「どんな音が聞こえる?」と聞くと、「カチカチ」、「コツコツ」など自分の噛んでいる音についての発言が多かった中で、ある園の3歳児には「海にかえりたいって言ってる」音が聞こえたそうです。
どんな音だったのかな。
その子はどんな想像力を働かせていたのでしょうか?
可愛らしく、とても印象に残る子どもの言葉でした。
みんなで食べるとおいしい!
味の教室を再開しました。
「コロナのことは気になるけど、子どもの成長にとって大切な時期に「味の教室」の体験をさせてあげられないのは問題だから、十分に気をつけてやっていきましょう」とおっしゃってくださった園長先生方の期待にこたえるようにつとめてまいります。
次回、2回目の講座では3種類のバナナを試食します。
緑と黄色、そしてシュガースポットの出た少し茶色くなったバナナです。
色も違い、噛み応えも違い、味も渋かったり、甘かったり、そして熟すと香りが出てきます。まさに5感で違いを感じる絶好の食材です。そして数日、緑のバナナをクラスに飾っておくと黄色く変化する姿も確認できます。生き物は変化すること、食べ物に食べごろがあることなどもあわせて感じてもらうことができます。3種のバナナを試食すると各クラスに何名かはなぜか「緑が好き!」という子がいます。固さなのかな?子どもって本当に多様だと思います。
このバナナを使った回で、ある保育園での出来事に私は感動しました。
バナナの試食にあたっては、いつも各班には園児人数よりも少し多めに「輪切りバナナ」を配布しますので、何切れかは余ります。
余っているバナナを見た園児が、「もっとちょーだい」とバナナを先生にねだりました。
その先生は、その園児に「それじゃ〇〇ちゃん、みんなと分け分けしてくれる」と5ミリほどの厚さの輪切りバナナを一切れ渡すと、その園児は手で小さくちぎってお友達に分けていきました。最初に大きくちぎってお友達に渡してしまったので、最後4人目の自分の分は少ししか残りませんでした。失敗した!と思ったのでしょう。もう一切れあった余りのバナナの時は、最初のお友だちには小さくちぎり、最後の自分には大きく残すことに成功しました。3歳さんの知恵はたいしたものです。感動したのはここではありません。
味の教室のしめくくりに、当日試食した3種のバナナの絵が描かれたワークシートをくばり、園児にどのバナナが一番美味しかったかをたずねたところ、その班の子ども達は、「みんなで分け分けしたのが一番美味しかった!」とこたえたのです。3歳の子ども達の素直な言葉に驚きました。
子ども達の姿を見ながら、人類が他の動物と違ってここまで進化してきたのは、「食べ物をわかちあう、共食の社会があったから」ということに改めて想いを馳せました。幼少期にこんな体験ができる保育園っていう場所は、本当に素晴らしいところですね。
子どもといっしょにミカンを食べよう
ネットで、小さな子どもが一生懸命、デコポンを上手にむく動画を見ました。
とても可愛らしい姿でした。
皮をむいている時の匂いや、子どもの目に汁が飛んできたらどんな反応するかな、などと想像して見ていました。
私は、最近はコロナ対策と称して、毎日柑橘類を食べるようにしています。
βカロテン、クリプトキサンチンとかビタミンCなどの抗酸化ビタミンなどの栄養が、コロナ肺炎予防にも役立ちそうだ、というのが管理栄養士的な視点です。実際に今のコロナ関連の研究の中には、肺炎の重症化防止に、抗酸化ビタミンやオメガ3脂肪酸が役立つことを検証しようとするものもありますから、これらの栄養に着目することは間違いありません。抗酸化ビタミンと言えば野菜や果物、オメガ3脂肪酸と言えば魚、ですね。
ただ私は柑橘類を食べることで、心の栄養も得ています。
例えば夏みかんの皮をむいて、爽やかな香りが周囲にひろがると、とてもよい気持ちになります。リラックス効果とでも言うのでしょうか、この鼻腔を刺激する香りがとても良い効果を持っているように思えます。
夏みかんや八朔などの大きな柑橘は、外側の皮をむいてから、中身の房を包む薄皮をむかなければならないので手間がかかります。幼少期には母親にむいてもらいました。
薄皮をむいた果房を「オシシ」と呼んでいた記憶がよみがえりました。私の記憶の中でも、最も私が幼かった時の記憶の一つだと思います。
私が「オシシちょうだい」とねだると母親は薄皮をむいて、むいた薄皮を果房の底でひっくり返して「ほらオシシ」と私に渡してくれました。ネットで検索すると「オシシ」というのは東京の方言らしいですね。皮がひっくりかえった姿が獅子舞に似ているから「オシシ」なんだと勝手に理解していました。
その母も2年前に他界しました。亡くなる前の1年間は、寝たきりで発語がほとんど出来ない状態でした。会話によるコミュニケーションのとれない母の見舞いに、柑橘を持参しました。母の鼻先で、柑橘の皮に爪をたてると、爽やかな香りが出てきます。
母は鼻のあたりを動かして匂いをかぐ仕草をします。「わかるかい?」と私が声をかけると、母は少しうなずきます。
「昔、オシシを作ってくれたね」と話しかけると、発語は出来ないけれど満面に笑みをうかべていました。かろうじて動く彼女の右手を握ると弱弱しく握り返してくれました。
匂いをかいだり、触ったりという感覚があるおかげで、話すことの出来ない晩年の母親とコミュニケーションがとれました。そして、そこには半世紀前に「オシシ」という共通の思い出がありました。
フランスの作家プルーストがその著作「失われた時を求めて」の中で描いた、主人公が、紅茶に浸った一片のマドレーヌの味覚から過去の記憶を思い出すような体験は、誰にもあるのではないでしょうか。
子ども時代に五感を使った体験を重ねることは、肌感覚で物事を理解する力の他、感動や共感、生きている充実感を与えてくれます。
子どもにミカンをむかせるネット動画を見ながら、親子でミカンを食べる姿を想像しました。一緒にむいて、飛び散る汁や香りを確かめて、甘酸っぱい味を味わって。五感を使って親子で共感する体験。ミカンをどうぞ。
